円覚寺について

博多 円覚寺について

円覚寺は大覚禅師蘭渓道隆が開山、藤原道信開基、北条時頼を勧請開基とした由緒ある禅寺です

円覚寺は鎌倉時代に大覚禅師蘭渓道隆(※1)が開山した寺院で、藤原道信(※2)によって開基され、北条時頼(※3)を勧請開基とした大変歴史のあるお寺で、建立時期は寛元4(1246)年~宝治2(1248)年と考えられます。

その後に天正14(1586)年に喪失後、寛永13(1636)年に現在地に移転し再建されました。

日本最初の本格的な禅寺である聖福寺の塔頭寺院のひとつであり、長年千利休に師事した南坊宗啓禅師を遠祖とし立花実山が編纂した南方録をもとに南方流の禅と茶を今もなお守り継いでいるお寺としても知られています。

博多円覚寺の歴史

博多円覚寺は開山 大覚禅師蘭渓道隆(1213~1278)、開基 藤原道信(生没年未詳)、
勧請開基 北条時頼(1227~1263)によって建立された寺院であります。

開山

大覚禅師 蘭渓道隆(1213〜1278)

開基

藤原道信 (生没年未詳)

勧請開基

北条時頼(1227〜1263)

01

寛元四年(1246)

来日と開創

月翁智鏡との縁で来日。太宰府にて藤原道信と出会い円覚寺を開創。

02

宝治二年(1248)〜

鎌倉・建長寺

北条時頼に請われ常楽寺住持となり、建長五年(1253)建長寺を落慶。

03

弘安元年(1278)

示寂・禅師号

示寂後、後宇多天皇より日本初の禅師号「大覚禅師」を授与される。

01 蘭渓道隆の来日

来日の縁

蘭渓は、中国から渡来した僧で、鎌倉中期の寛元四年(1246)、三十三歳の時に、中国(当時、南宋)に留学していた泉涌寺の日本人僧、月翁智鏡(真言宗の僧で日本に律を伝えたと言われている※4)との縁で、弟子義翁紹仁らとともに日本に本格的な禅を布教する為に来日されました。

太宰府での出会い

蘭渓は来日当初太宰府に行き、そこで鎮西奉行で太宰府府学堂の音博士も兼ねていた藤原道信と出会います。道信はもともと天台宗の信者でしたが、蘭渓と出会った後は禅師に参禅帰依し臨済宗へと改宗します。後に剃髪して道如上座と呼ばれるようになります。道信(あるいは道信没後その一族)は、別荘を博多千磐浜(矢倉門、現在の祇園町付近)にあった円覚堂の敷地内に移し、それを禅寺の円覚寺にしたとされます。

02 鎌倉へ——建長寺の開創

京都から鎌倉へ

蘭渓はその後、在宋時代の知己である月翁智鏡〈げっとうちきょう〉を訪ねて上京し京都泉涌寺〈せんにゅうじ〉に滞在します。宝治二年(1248)幕府のあった鎌倉にくだり、寿福寺に入ります。同年末、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼(1227~1263)に請われ常楽寺の住持となられます。

建長五年(1253)

建長五年(1253)北条時頼を開基とし、蘭渓道隆を開山として建長寺が落慶されます。

03 建仁寺・遍歴・示寂

建仁寺・建長寺へ

弘長二年(1262)、五十歳のとき兀庵普寧〈ごったんふねい〉に建長寺住持を引き継ぎ、京都建仁寺の住持となられます。 文永元年(1264)、建長寺の住持に復帰し第七代執権北条時宗(1251~84)の帰依を受けられます。(北条時宗はその後、蘭渓と同郷の南宋より無学祖元を開山に迎え鎌倉の円覚寺を開創しております)

遍歴・冤罪・帰還

その後、蘭渓は流言により甲斐・信濃・奥羽などを遍歴する事になりますが、布教を続け甲府に東光寺を開創しています。また塩山の向岳寺には蘭渓の讃がある達磨絵が残っております。その後、冤罪が解かれ建治三年(1277)鎌倉に戻り寿福寺住持に復帰されます。

弘安元年 (1278) 六十六歳

弘安元年(1278)六十六歳で三度目の建長寺住持に就任され、同年、建長寺にて示寂されました。蘭渓は臨済禅の普及に勤められ南宋禅林の規式に則した修行が実践されました。蘭渓が記した「法語規則」(国宝)には当時の修行の厳しさが現在へ伝えられています。示寂された一年後、後宇多天皇から、日本で初めての禅師号となる「大覚禅師」の勅号を授与されました。

弘安元年

(1278)

六十六歳

弘安元年(1278)六十六歳で三度目の建長寺住持に就任され、同年、建長寺にて示寂されました。蘭渓は臨済禅の普及に勤められ南宋禅林の規式に則した修行が実践されました。蘭渓が記した「法語規則」(国宝)には当時の修行の厳しさが現在へ伝えられています。示寂された一年後、後宇多天皇から、日本で初めての禅師号となる「大覚禅師」の勅号を授与されました。
蘭渓道隆 略年譜

寛元四年(1246) 33歳

来日・博多 円覚寺の開創

月翁智鏡の縁で来日。太宰府にて藤原道信と出会い、円覚寺を開創。

宝治二年(1248)

鎌倉へ・常楽寺住持

鎌倉にて寿福寺へ。同年末、北条時頼に請われ常楽寺の住持となる。

建長五年(1253)

建長寺 落慶

北条時頼の開基、蘭渓道隆を開山として建長寺が落慶される。

弘長二年(1262)

建仁寺住持へ

建長寺住持を引き継ぎ、京都 建仁寺の住持となる。

文永元年(1264)

建長寺住持に復帰・時宗の帰依

第七代執権・北条時宗の帰依を受ける。(時宗はのちに無学祖元を開山に迎え鎌倉の円覚寺を開創)

建治三年(1277)

冤罪が解かれ鎌倉へ

流言による追放から冤罪が解かれ、鎌倉へ帰還。寿福寺に復帰する。

弘安元年(1278) 66歳

三度目の鎌倉・示寂・禅師号

三度目の鎌倉滞在中に示寂。示寂翌年、後宇多天皇より日本初の禅師号「大覚禅師」を授与される。

円覚寺の興りと再建

博多円覚寺に話を戻しますと、建立時期は蘭渓道隆が来日した寛元四年(1246)から、鎌倉に移ることになる宝治二年(1248)の間と考えられます。
以上が円覚寺の興りでありますが、千磐浜にあった円覚寺は、天正十四年(1586)に喪失してしまいます。
その五十年後の寛永十三年(1636)現在地の博多御供所町に移転し再建され、安国山聖福寺の搭頭のひとつとなりました。
建立から実に約780年の歴史を誇ります。

円覚寺は仏道だけでなく、茶道文化の伝承にも貢献し、歴代住職は利休の侘茶の神髄とされる秘伝書「南方録」に基づいた茶道稽古を続けており、
日本で唯一「茶道 南方流」を行う禅寺としてその歴史を脈々と受け継いでいます。

※1 蘭渓道隆(1213~1278)鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧。大覚派の祖で、建長寺を開山。

※2 藤原道信(972~994)平安時代中期の貴族。官位は従四位上・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。

※3 北条時頼(1227~1263)鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権。禅宗を深く信仰し、中国から高僧「蘭渓道隆」を招いて「建長寺」を創建。

※4 月翁智鏡…鎌倉時代に中国(宋)から日本へ本格的な禅宗(臨済宗)を広めるきっかけを作った僧侶で、宋に渡り、そこで出会った蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を日本へ招いた。

【歴代の祖師】

開山 蘭渓道隆

・・・・・・ 中興 ・・・・・・

第2代 物源 休

第3代 月峰 守請

第4代 灌 溪

第5代 月泉 周

第6代 要津 玄孚

第7代 松峰 恵昌

第8代 仁 山

第9代 綱叔 堤

第10代 圭峰 弘

第11代 珪 州

第12代 大安 恵穏

第13代 寛旨 眼

第14代 寳 林

第15代 蔵海 寳

第16代 格堂宗越

第17代 猷山自誡

第18代 環洲自亮

第19代 孔道自章

円覚寺の寺号札

【令和8年度行事】

●3月19日(木)11時より、春彼岸法要
先祖供養(約35分)、法話(約30分)

●8月11日(火)〔山の日〕合同盆経〔予約者のみ〕10時30分より、または12時より
(それぞれ約30分)

●9月22日(火)〔国民の休日〕11時より、秋彼岸法要
先祖供養(約35分)、法話(約30分)

●11月1日(日)11時より、円覚寺開山忌法要
※ご案内は総代役員のみとさせて頂きます。

〜コラム〜

三つ鱗

「ミツウロコ」について

■円覚寺の随所に北条家の家紋「ミツウロコ」が出没!

円覚寺に来寺した方は、境内の各所に三つの三角形を組み合わせた紋章が点在していることに気付いたかもしれません。これは通称「ミツウロコ」と呼ばれ、鎌倉幕府の執権・北条氏の代表的な紋として知られています。

ミツウロコ
ミツウロコ
ミツウロコ

このミツウロコは北条時政が江の島弁財天で祈願した際、弁財天が龍(大蛇)と化して消えたあと、残された3枚の鱗に由来するともいわれ、「魔除けの意味も持つ」とも言われています。
博多円覚寺の開山蘭渓道隆は北条時頼の帰依を受けたことにより勧請開基として北条家をまつり北条三ツ鱗を寺紋とさせていただいています。

約780年にわたる円覚寺と北条氏の深い縁を物語っています。参拝の際には、ぜひこの紋章にも注目してみてください。

ライトアップウォークについて

■円覚寺は博多旧市街ライトアップウォークに参加しています

2006年に福岡市の都市景観賞20周年記念事業の一環としてスタートした「博多旧市街地ライトアップウォーク」は、長い歴史を有する寺社の建物や庭園にライトアップの装飾を行い、市民や観光客にその魅力の発信する人気イベントです。
円覚寺はこの博多旧市街ライトアップウォークに毎年参加しており、イベント期間中は幻想的な光に包まれた本堂や庭園などをお寺に入って拝観していただいています。

ライトアップされた本堂
夜の境内

開催時期や詳細については、新着情報やお問い合わせにてご確認ください。皆様のご参加を心よりお待ちしております。